人気俳優の町田啓太さんの父親についてまとめました。群馬県出身の町田啓太さんのルーツと幼少期エピソード、親子仲についてお届けします。
目次
町田啓太の父親は群馬県吾妻郡の一般人
町田啓太さんのご出身は、群馬県吾妻郡東吾妻町です。父親の実家がこの地域にあります。
ご両親は芸能活動をしていたわけでは全くなく、一般人です。
今までご両親が表に出てくることはありませんでしたが、実はNHKの「ファミリーヒストリー」という番組で、町田啓太さんが取り上げられた際(2023年11月24日放送)、町田啓太さんの父親と母親が登場しています。
家族写真も放送されたようでぜひ観たかったのですが、見逃し放送や有料のNHKオンデマンドでも過去放送は一切終了しており、観る方法が今の所ありません。
ネット上で画像が残っていないか調べましたが、一般人だからなのか、父親・母親に関する画像は残されていませんでした。
町田啓太の父親の職業は教師なの?
町田啓太さんの父親の職業は教師ではないか?とネット上で噂されています。
それは、2017年頃のインタビューで町田啓太さんが「小学生くらいの時は、親の影響もあって漠然と教員になりたいと思っていたような気がします」と語ったことが原因です。
元々、町田啓太さんの母親が教師をしていることは知られていましたが、父親の職業についてはずっと不明でした。
しかし、上記の「ファミリーヒストリー」で、父親も教師であることが放送されました。噂通り、父親と母親の両方が教師だったことが、ここで判明しました。
ファミリーヒストリーを観たファンの方によると、父親は町田啓太さんに非常に似ているそうです。体つきから、眉毛の存在感、口元までそっくりだそうです。
ご両親は共働きで、それなりにしっかりとした経済基盤を作っていたことは分かっています。
町田啓太さんは中学卒業後、パイロットを目指していて「日本航空第二高校(現・日本航空高校石川)」という航空学校に通っていました。
町田啓太さんは「お金がだいぶかかったと思うけど、両親は好きなことを何でもさせてくれた」とコメントしています。
視力の問題やそれだけではなく、パイロットを目指し続ける精神力の限界から、パイロットになることは結局諦めてしまいましたが、その後は体育の教師を目指して日体大へ進学しています。
学費だけでも相当掛かっているはずです。
しかも、町田啓太さんは一人っ子ではありません。他にも兄弟(姉と妹)がいます。
これだけの多額の教育費を賄えるくらいなので、町田啓太さんの父親も母親も相当頑張ってお仕事をしていたと考えられます。
町田啓太の父親のルーツは源氏の落人だった!?
町田啓太さんは、自身が平家の血筋を引いているのでは?と認識していたそうですが、全く逆で源氏の落人の生き残りでした。
町田啓太さんは、木曽義仲(=源義仲・みなもとのよしなか)の家臣で四天王ともいわれた楯親忠(たて ちかただ・楯六郎親忠ともいわれる)の末裔であることが判明しています。
木曽義仲は、2歳の時に父(源義賢)を戦いで亡くしました。
義仲も父と一緒に始末されるはずでしたが、幼くてあまりに不憫であったため、木曽に逃がされたことから生き延びます。
後に平家打倒を掲げて挙兵し、1183年に平家の大軍を壊滅させて(倶利伽羅峠の戦い)大活躍し、入京しました。征夷大将軍にも任命されています。
後に、後白河法皇に疎まれてしまって、31歳で亡くなっています。
そんな木曽義仲の家臣として、数々の戦いに参戦していたのが楯親忠(たて ちかただ)です。平家の大軍を壊滅させた倶利伽羅峠の戦いにも出陣しており、木曽義仲を支えた実力派の武将でした。
しかし、1184年に出陣した際、父の根井行親とともに討ち取られてしまいます。
敗死を知った行親の妻は、関係する子孫らを全員引き連れて上野国(現在の群馬県渋川市)に必死に逃亡しました。
この群馬で生き残った子孫の末裔が、町田啓太さんです。ご先祖様から脈々とつながれてきた自分のルーツを知った町田啓太さんは衝撃を受けていたようです。
町田啓太さんに漂う品格や素敵な人柄は、群馬の自然豊かな場所で伸び伸び育ったことだけではなくて、ご先祖様が繋いできた思いを受け継いでいたからだったのですね。
大河ドラマ「青天を衝け」に出演した際、町田啓太さんの土方歳三役が非常に様になっていて話題でしたが、武士の血をリアルに引いていたのですから、納得です。
町田啓太さんの父方先祖である楯親忠(楯六郎親忠)の供養塔が、群馬県渋川市に残っています。
母方のご先祖様も立派な方々ばかりでした。五代前のご先祖様は、村の文化的なリーダーをしていて、地域をまとめていたようです。
母方の四代前のご先祖様は齋藤久米治(さいとうくめじ)さんという方で、地元で有名な教育者でした。
国語と漢学が得意で、当時は超難関試験だった中学教員免許を取得し、教師をしていました。
徳島県の尋常師範学校の教壇に立ちながら、「小学作文教科書」の作成をしていたそうです。教科書の作成は国から依頼されたもので、相当な実力のある教育者だったことが分かります。
大正天皇に対する「御前教授(天皇の前で授業をすること)」の役割まで担っていました。
その後は栃木に帰り、栃木で複数の学校の教師や校長を務め、学校の建築費や奨学金の寄付も行いました。
生涯にわたって私財を投げ打ちながら、教育に徹底的に取り組んだ方でした。
そして、齋藤久米治さんが校長を務めていた栃木の学校の校是(こうぜ・その学校の設立精神を表したもの)には、「啓(ケイ) 知を啓き 心を啓き 新しい伝統の扉を啓く」と書かれていました。
町田啓太さんの名前の由来がメディアで語られたことはありませんが、「啓」の文字には様々な思いが込められているのだと想像します。
母方の三代前のご先祖様は、横浜の外資企業に勤めたハイカラさんだったそうです。今でいうエリートサラリーマンです。
関東大震災に巻き込まれ、瓦礫の下敷きになって出られなくなってしまいましたが、さらなる余震で瓦礫がちょうどズレて、運よく自分の空間が出来て脱出できたそうです。この運がなければ、町田啓太さんはこの世に誕生していませんでした。
町田啓太さんが今の町田啓太さんでいられる背景には、たくさんのご先祖様が紡いできた物語があると分かりました。
こんなに立派な家系で育った町田啓太さん、あらためて今後のさらなる活躍が楽しみになりました。
町田啓太の芸能界入りに対する父親の反応
町田啓太さんの母親はかかあ天下だったと噂されているので、父親はおっとりしてあまり文句を言わないおとなしい性格なのではないかと推測します。
そのため、町田啓太さんの芸能界入りに対しても、黙って応援してくれたのではないでしょうか。
パイロットの夢や体育教師の夢は応援してくれていたので、同じように俳優の夢も応援してくれたことでしょう。
町田啓太と父親の幼少期エピソード
父親との思い出として、幼少期から家族で月1回映画を観に行くのが習慣だったそうです。
映画をたくさん観ているうちに「映画の中の人になれば人を楽しませることができる」と思って、俳優を目指すようになったそうです。
家族との幼少期からの温かい思い出が、現在の仕事の原動力になっているのは素敵ですね。
また、祖父との幼少期エピソードも残っています。
祖父(七郎さん)はとても厳しい方だったそうです。特に食事のマナーには厳しく、箸の持ち方などをきつく教育されたんだとか。
また、学校から帰るとすぐに「宿題をしろ!」といわれていたそうです。
当時はなんで帰ったばっかりなのにと不満に感じていたようですが、そのおかげでやるべきことにすぐ着手する習慣がついて、感謝していると語っていました。
町田啓太と父親との親子関係は良好
町田啓太さんは現在でも「年1回くらいは帰るようにしています」とコメントしていて、ご両親との親子仲は良好だと考えられます。
実家のある場所は、都会から見たらキャンプ場みたいな自然豊かすぎる場所だそうです。
町田啓太さんはキャンプをしたり、アウトドアが大好きだそうで、きっと幼い頃に父親と一緒に自然に囲まれて遊んでいたんだろうと想像します。
町田啓太の家族構成
祖父 | 厳しくしつけをしていた |
祖母 | 菩薩のような優しさ。怒ったことがない |
父 | おとなしく優しい |
母 | かかあ天下、教師をしている |
長女(姉) | 自由奔放で気が強め |
長男(本人) | 町田啓太 |
次女(妹) | 冷静で頭が良い |
町田啓太さんの家族構成は、祖父・祖母・父親・母親・姉・町田啓太さん・妹の7人家族でした。優しい性格になったのは、女兄弟に挟まれて育ったからだったのですね。
逆に大人になっても、女性には強く出られなくなってしまったそうですが、兄弟仲は現在も良好で、姉の子供とよく遊んでいる様子がインスタグラムに投稿されているのをよく見かけます。
姉はとっても自由奔放な女性で、町田啓太さんは喧嘩をしたとしても、絶対に勝てないだろうなと思いながら育ったとか。
町田啓太さんは妹とも仲が良く、妹の結婚式に出席した時の画像を投稿しています。
「妹よ、おめでとう。お幸せに。いつまでもいつまでも、自慢の妹」というコメントとともに投稿されており、兄弟の仲の良さが伺えます。
妹さんはとても冷静で頭が良い女性だそうで、喧嘩になったとしても相手にされないと語ってました。
「アルマーニビューティKOYO」のイベントに登壇した際、リップを渡したい相手はいますか?という質問に対して「妹が化粧っ気ないのでプレゼントしようかな」と発言しており、妹さんを大切にしていることが分かります。