中田翔選手はWBCで大活躍したり、打点王・ゴールデングラブ賞を受賞するなど、打者としての印象が非常に強い野球選手ですが、高校時代はピッチャーだったことを知っていますか?

名門・大阪桐蔭高校の野球部に所属し、1年生のときからレギュラーを掴み、甲子園で大活躍していました。

高校時代の活躍、どんな選手だったのかについてまとめてみました。

中田翔がピッチャーやめた理由

出典:Number WEB(©Hideki Sugiyama/Tamon Matsuzono)

中田翔さんは、元々高校時代はピッチャーとして活躍していました。しかし、その後は皆様ご存じの通り、打者に転向しています。

ピッチャーとしての活躍ぶりは凄くて、そのままピッチャーとしてプロ入りするのではないか?と当時は考えられていましたが、どうしてやめてしまったのでしょうか。

高校時代のエピソードを順に追って、調べてみました。

中田翔の高校時代の活躍!ポジションはピッチャー【球速151km/h】

中田翔さんは、高校時代は投手として活躍しており、球速は151km/hを出していました。高校通算本塁打記録は87本塁打で、かなり注目されました。3年次の春選抜ではベスト8に進出しています。

1年生5番1塁手
2年生7番ライト
3年生1番投手

1年生の夏には背番号5番のエース、1塁手でレギュラーを獲得しています。

元々、既に中学生の頃からピッチャーとして活躍していたこともあり、大阪桐蔭高校に入って1年生の秋には151キロの球速を記録しています。バケモノですね…。

2年生ではライトのポジションで、甲子園に出場しました。

3年次には背番号1で、ポジションは投手です。ただし夏の大阪大会では決勝で敗れ、甲子園出場はなりませんでした。

プロからは打者として評価されてドラフト1位指名、日本ハムに入団し、プロ4年目でレギュラーに漕ぎつけました。

その後の戦果は、このような感じです。

  • 2013年 WBC日本代表
  • 2014年 打点王
  • 2015年 ゴールデングラブ賞
  • 2016年 打点王・ゴールデングラブ賞(各2回目)

中田翔は怪我によって投手を断念

投手としての素養があり、才能があった中田翔さんですが、怪我によって投手としての道は断念することになりました。

高校時代の恩師・西谷監督がインタビューで投手としての才能に言及したことがあります。「中田は本来はピッチャー。2年春にヒジを故障しなければ、すごいピッチャーになっていたはずなんですよ。松坂(大輔)ぐらいになるんじゃないかと思った」と語っており、悔やまれます。

出典:NumberWEB(©︎Hideki Sugiyama)

本人も投手として活躍するのが好きだったし、元々は打者にはそれほど情熱がなかったそうです。

球速は最速で151キロを記録するほどでしたが、2年生の春に右ひじを怪我によって痛めてしまいました。

怪我からの復帰後も、球速は147キロまで戻りました。しかし、切れが無い状態で、"球質" は最後まで元に戻りませんでした

本人の決断は「投手を諦め、将来は野手で行く」でした。

相当な葛藤があったと思われますが、無理に投手を続けようと頑張るのではなく、打者として再起しようとしました

大阪桐蔭高校の小山貴弘(元キャプテン)も「中田選手は、体つきも含めて入学当初から雰囲気が他の選手とはまるで違いましたね。特にピッチャーとしてのレベルが驚くほど高かった。」「マウンドでのたたずまい、冷静なフィールディング、球際の強さ、変化球の鋭さなど、総合的に見ても中田レベルの投手は他の高校を見渡してもほとんどいなかったと思います。」と中田翔さんの才能を語っています。

怪我で奪われてしまった才能には惜しいものがありますが、それでも打者として活躍すべく試行錯誤する姿に勇気をもらった人も多かったのではないでしょうか。

中田翔はプロに行くために投手を捨てて打者になることを決めた

当時、投手として過ごしていた高校時代、そして怪我による投手断念についてインタビューに答えたことがあります。

「ピッチャーとしてプロになりたい」と明確に考えていた中田翔さんはバッティングに関してはほぼ関心が無かったそうです。全体練習のフリーバッティングくらいはやっていたものの、それ以外の練習は特にせず、「正直、バッティングは遊び感覚だった」と語っています。

しかし、右肘を怪我してしまった中田翔さんは、投手としてプロに行くことは難しくなってしまいました。当時のことを中田翔さんは、「プロに行くには、バッターしか残ってなかった」と語ります。

決意と覚悟がにじみ出るコメントです。これが高校生の決断というのですから、精神のタフさには頭が下がります。

出典:NumberWEB(©︎Hideki Sugiyama)

以前と同じ球が投げられなくなってしまった中田翔さんですが、プロに行きたいという思いは変わりませんでした。

そして、「それでもプロに行きたかった。となると、バッターしか残ってなかった」と語っており、ダメになってしまった現実をきちんと受け入れた上で、どうすればよいのかを考え、バッターになると決断し、そしてその方向に全力で振り切りました。

この決断と行動が10代で出来るのなら、そりゃプロにもなれますよ…。凄い。

中田翔の打者としての高校時代

打者として生きることを決意した中田翔さんは、とにかく練習熱心にバットを振り続けました異常な集中力で、スイッチが入ると夜中までバットを振り続けることすら多々あったそうです。

出典:NumberWEB(©︎Himeno Sugiyama)

大阪桐蔭高校の野球部では選手の自主性を重んじており、スイング指導はほとんど行われませんでした。

比較的のびのびとした練習をさせてもらえたようで、フォームについて口出しされることはほぼなかったようです。

スローボールのトスをあげてくれるマシンを使っての練習だけは薦められたそうで、全体の練習が終わると、そのマシンを使った練習ばかりしていたとか。

やはり活躍する選手には、才能の上にとんでもない努力が積み重なっているんですよね。才能を持っていても、それを開花させられるかどうかは自分と環境次第です。

高校野球について「楽しいなんていうヤツはいない」「毎日つらい練習してますから。」「冬なんか憂鬱でしょうがない。ずっと走ってましたよ。」とはっきり言ってますし、相当な鍛錬を積んできたことが伺えます。

でも、こういった積み重ねてきた時間が、後の活躍の土台を作っていくのですよね。

平成の怪物と呼ばれるだけのことはあります。精神力もまさに怪物です。

元ピッチャーの試行錯誤

元ピッチャーからの転向をしているので、プロの打者としてやっていくために色々と軸を確立しなければなりません。

すり足・一本足・ガニ股打法等々、ここまで変えまくる打者も珍しいですよね。

打者転向してから試行錯誤する様子が伺えます。

中田翔選手が高校時代に残した伝説

中田翔さんは球速150キロという時点で怪物ですし、ホームランで追加点をあげるなど、華々しい甲子園デビューを果たしています。

規格外の推定170m特大ホームラン

その他にも、高校2年生の時に出場した地方大会で規格外の特大ホームランを打ったことがあり、伝説として語り継がれています。推定170mのホームランです。

特大本塁打は、左翼場外に飛び出し、民家2軒を飛び越えた先の道路で発見されました。本塁からの到達点は188.41mです。

そりゃ怪物扱いされます。

軟式で球速144キロ

出典:中日スポーツ

プロに入ってからも伝説を残しています。茨城のイベントにて、ファンを喜ばせるために「ピッチャー、オレ」と題して、マウンドに向かった中田翔選手。

硬式球よりもスピ―ドが出にくいはずの軟式球でしたが、その剛腕を振るうと、なんと144キロでした。

ということは、硬式で投げればもっと出るはず。さすが怪物です。やっぱり実力者ですね。年俸も億をしっかり超えています。

これからも、多くのファンを喜ばせてくれるでしょう。活躍に期待です。

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