今や『爆笑問題』の太田光さんの妻というより、芸能事務所『タイタン』を率いる女性実業家としての顔が知られる太田光代さん。
彼女の人生は波乱万丈でありながら、逞しく生き抜く力を持ち続けてきました。
ここでは、彼女の生い立ちから現在に至るまでの軌跡を振り返ります。
目次
太田光代の生い立ちと波乱万丈な人生!幼少期の苦難から成功まで
- 生い立ちエピソード!母の愛と壮絶な幼少期
- 股関節脱臼が重症化
- 新しい家族との生活
- 芸能界入りはモデルからお笑いの世界へ
- 太田光との馴れ初め
- 事務所設立と独立の苦難
- 『爆笑問題』復活への戦略
- 現在の仕事状況
生い立ちエピソード!母の愛と壮絶な幼少期
太田光代さんは、母親が39歳のときに未婚のまま出産した子どもでした。
父親については、壱岐の島に住んでいたことがわかっています。
太田さん自身も過去にSNSで「壱岐の島にいきたいな。私を作成した父様の島。」と投稿しており、自身のルーツを大切にしていることがうかがえます。
幼少期にはさらに試練が続きます。
股関節脱臼が重症化
彼女が1歳半のとき、股関節脱臼が判明。
通常、生後まもなくの検診で発見されることが多いこの病気ですが、太田さんの場合は歩き始めた頃に診断されたため、重症化していました。
「普通に歩くのは難しい」と医師に言われたほどでしたが、1歳半から3歳までの長期間の入院と治療を経て、奇跡的に回復。
小学校高学年には、ほぼ普通の状態で歩いたり走ったりできるようになりました。
その経験から、彼女は同じ病気で苦しむ子どもや母親たちの力になりたいと考えており、SNSを通じても情報を発信しています。
新しい家族との生活
6歳のとき、母親が見合い結婚をすることになりました。
突然、新しい父親ができるという状況に戸惑い、「私がいるだけじゃだめ?」と母親に尋ねたものの、母親からは「だめ」ときっぱり告げられます。
その後、なかなか義理の父親と距離が縮まらなかったものの、一緒に映画を観に行ったことがきっかけで彼を受け入れるようになりました。
太田さんは義父・鉄三さんの影響を大きく受けたと語っています。
彼女が経営者としての資質を培ったのも、この義父の存在が大きいのかもしれません。
芸能界入りはモデルからお笑いの世界へ
高校卒業後、スカウトを受けてモデル事務所に所属。
グラビアやキャンペーンガールとして活躍し、テレビ東京の番組内で「漂流GALS」というユニットにも参加。
そのメンバーには岡本夏生さんや蓮舫さんもおり、現在も交流が続いているようです。
しかし、彼女の人生は思わぬ方向へ進みます。
日本テレビのバラエティ番組『鶴ちゃんのプッツン5』のコンテスト企画に出演し、水着姿でモノマネを披露。
その場で太田プロダクションにスカウトされ、お笑いの世界へ足を踏み入れることになりました。
当時の同期には、爆笑問題の太田光さん、松村邦洋さん、春一番さんがいました。この出会いが後の大きな転機となります。
太田光との馴れ初め
ある日、芸人仲間たちと合同コントを作るために太田光代さんの家に集まり、台本を作っていました。
その場で、太田光さんが他の女性芸人にしつこく追いかけ回されて困っていたため、光代さんは彼の手を握り助け舟を出しました。
その瞬間、太田光さんは光代さんが自分に好意を持っていると勘違いし、その日のうちに同棲が始まりました。
光代さん自身も「まぁいいか、一回ぐらい…」と軽い気持ちだったそうですが、結果的に二人は結婚へと進むことになります。
交際は1988年に始まり、1990年の秋に結婚。夫婦としてだけでなく、仕事のパートナーとしても長年支え合う関係を築いていきます。
事務所設立と独立の苦難
結婚の前、『爆笑問題』は当時所属していた太田プロダクションを半ば喧嘩別れのような形で退社。
他の事務所にも移籍できず、仕事がゼロの状態に陥ります。
この困難な時期、田中裕二さんはコンビニでアルバイトをし、光代さんも同じ店で働きました。
しかし、それだけでは生計が成り立たず、光代さんはパチスロで収入を得ることに。
なんと月収50万円を稼ぐほどの腕前で、攻略法を研究するために自宅にスロットマシンを設置するほどでした。
一方の太田光さんは、計算が苦手でコンビニの仕事も難しく、体力仕事も向かないため、自宅でゲームをする日々を送っていました。
『爆笑問題』復活への戦略
光代さんはこの状況を打開するために、『爆笑問題』の単独ライブを開催することを決意。
「ネタさえ見せれば絶対に興味を持たれる」と確信していたのです。
1回目のライブを7月に開催し、翌年1月には2回目のライブを実施。さらに、テレビ局の関係者に片っ端から招待状を送りました。
その結果、2回目のライブを見に来たテレビ局の重鎮が興味を持ち、4月からの新番組のレギュラー出演が決定。
『爆笑問題』の復活劇が成功した瞬間でした。
こうして『爆笑問題』は再び表舞台に立ち、現在の地位を築くことになりました。
現在の仕事状況
現在、太田光代さんが率いる『株式会社タイタン』は、多くの芸人や著名人を抱える大手事務所となりました。
『日本エレキテル連合』や映画監督の辻仁成さん、弁護士の橋下徹さんなど、多彩な人材をマネジメントしています。
さらに、関連会社6つを経営し、生花店やハーブ・アロマ店、エステサロンなどの事業も展開。経営者としての手腕を発揮し続けています。
彼女と太田光さんの関係は、夫婦でありながらビジネスパートナーとしても絶妙なバランスを保ち、お互いの強みを活かし合う関係を築いています。
今後もその活躍が期待されます。
太田光代の生い立ちに関する噂のまとめ
- 太田光代は母が39歳のときに未婚で出産し、父親は壱岐の島の出身
- 1歳半で股関節脱臼が判明し、3歳までの入院治療で回復
- 6歳で母が見合い結婚し、新しい父親と生活を始める
- 高校卒業後にスカウトされ、モデルとして芸能界デビュー
- グラビアやキャンペーンガールを経て、バラエティ番組出演へ
- 『鶴ちゃんのプッツン5』出演後、太田プロダクションにスカウトされる
- 同期の爆笑問題・松村邦洋らと共にお笑いの道へ進む
- 太田光との出会いは合同コントの台本作り中に手を握ったことがきっかけ
- 1988年に交際を始め、1990年に結婚し夫婦として二人三脚の道を歩む
- 爆笑問題が太田プロを退所後、仕事がゼロになり極貧生活に
- 光代がパチスロで月50万円稼ぎながらコンビの復活を模索
- 独立後、爆笑問題の単独ライブを開催しテレビ局関係者を招待
- その結果、テレビ出演が決まり『爆笑問題』が復活を果たす
- 事務所「タイタン」を設立し、爆笑問題を中心に芸人を育成
- 現在は芸能マネジメントに加え、生花店やエステサロンなど複数の事業を展開