キャシー中島さんは昔、超美人だったことを知っていますか?

現在では、すっかりふくよかになられてしまってハワイアンキルトおばちゃんの印象が強いですよね。

梅子
今ではすっかりお金持ちで七福神のうちの一人みたいな感じになってるけど、昔はスレンダーですごく美人だったのよ。元モデルだし。

昔、若い頃の画像や、波乱万丈の苦労話をまとめました。

キャシー中島の昔【衝撃】若い頃の美貌とナイスバディ

キャシー中島さんは若い頃、1969年にレナウンCMをきっかけにデビューしました。なんと当時は17歳。ぴっちぴちのモデルさんだったのです。

諭吉
めちゃくちゃ綺麗すぎる…!

ハワイ・マウイ島出身ですが、本名は勝野八千代さんといいます。母親は日本人ですが、父親がアイルランド系アメリカ人でハーフなんですね。

昔、モデルからタレントへと活動の幅を広げたキャシー中島さんは、さらに女優へと進もうとしたことがありましたが、女優の道は断念した過去があります。

その理由は「杉田かおる」からの一言(笑)

「ねぇねぇ、お姉ちゃん演技下手ね。女優に向いてないんじゃない」

諭吉
きっつwww

女優転向を視野に入れてドラマへ出演した際に、共演した当時子役の杉田かおるから「お姉さん演技下手だね」と言われたことで心を痛めて女優転身を諦めた経緯を、2016年1月25日放送の「ライオンのごきげんよう」で、杉田かおるがキャシー中島本人に言われたエピソードとして発言している。

梅子
これがきっかけで、女優の道はやめちゃったそうよ。
杉田さんもどうかとは思うけど…他人に言われて辞めちゃうくらいだから、きっと自分でも思うところはあったのかも

キャシー中島が昔抱いていた将来の夢は「手芸屋さん」ひとり遊びが好きで芸能界なんて考えてなかった

10代からモデルとして芸能界で活躍していたという過去からすれば、小さい頃からモデルやタレントになるのが夢だったのではないかと思う方も多いのではないでしょうか。

しかし、キャシー中島さんは子供の頃、モデルやタレントとは全くかけ離れた夢を抱いていたのです。

小学4年のときには、手芸クラブに入っていました。スウェーデン刺繍(ししゅう)なんかをやっていましたね。

小学校の卒業作文に書いた将来の夢も「手芸屋さん」モデルやタレントになるなんて、一切考えていませんでした。

梅子
これは意外ね。そもそも何で手芸が好きになったのかしら

米国人の父と日本人の母の間に生まれたハーフです。しかし、5歳の時に離婚しました。母子家庭で、独り遊びをしている時間が圧倒的に長かったそうです。

独り遊びで待っているほか、なかったんですね。その頃から小さなものを切って張って集めたり、針で縫ったりしていました。

父母が離婚した後には、横浜の石川町で育ち、10歳頃まで住んでいたのですが、近所にシャツを縫う内職をやっているおうちがあり、材木屋さんがあり、クリーニング屋さんがあり、といった感じで。

シャツの切れ端をもらったり、木目のきれいな材木の切れ端をもらったり。

だからそういう遊びができるものが、何となく家にあったんですね。独りで遊んでいても、みんなに声をかけられて、地域で育った感じでした。

その当時はどこもそうだったんですよね。だから寂しくはありませんでした。

手芸の才能は、幼少時代に身に着けたものだったのですね。

モデル・タレントを経て、一時芸能活動を休止、そして現在は一周まわってハワイアンキルトで大成功しています。

若い頃に本当に好きだったものがようやく開花したのですね。

ハーフが嫌で反抗期を迎えた若い頃のキャシー中島、何をしても注目される…どうにもならない周囲の目

心の中にモヤモヤするものが生まれたんですね。何をしていても注目度が高いんです。みんなと瞳の色が違うし、髪の毛の色も違うから。目立つから、何をしても怒られて。

それに対して反発心が芽生えてきたんです。

母には「それはあなたが思うだけで、(ハーフであることは)持って生まれたものなんだから、素晴らしいことなのよ」と言われたんですが、実際にみんなの私に対する態度は違っていたんです。

それで母にも反発するようになって、同い年ぐらいの仲間と遊ぶようになったんです。“ザッツ不良”の世界ですよね(苦笑)。

ただ、母のことは愛していましたので、学校にはちゃんと行くんですよ。

それでも学校から帰って、着替えて遊びに出ては、夜の11時や12時まで遊んでいましたね。

一般的な日本人の大人からすれば、ハーフというのは女性だったら美人だし、男性だったらカッコイイわけで、羨ましいと感じる人も多いかもしれません。

しかし、それが思春期時代となれば、当の本人は周囲と自分とのどうしようもない違いに悩まされる大きな原因になってしまうこともあります。

キャシー中島さんは昔、特に中学時代にこのことに悩まされていたようですね。

現代では、より容姿には寛容になってきましたが、昔の時代の人は少しでも周りとちがうと除け者にしたり、イジメの対象にしたり、逸脱した他人に厳しかったはずです。若い頃のキャシー中島さんは、そういった好奇の目に晒されることにも傷ついていたのでしょう。

横浜繁華街で遊ぶ日々、とある人物との出会い「あなた、もうちょっと痩せたらモデルで使いたいのね」

反抗期もあって、夜な夜な横浜に遊びに行っていたキャシー中島さん。そんなキャシー中島さんに目を止め、話しかけてきた人物がいました。それが堀切ミロさんでした。

堀切ミロさん。スタイリストの草分けのような方ですが、その人にスカウトされたんです。「あなたさあ、かわいいのに。もうちょっと痩せたらモデルで使いたいのね」と言われたのを今でもよく覚えています。

これがモデル業界へ入るきっかけ、そして芸能界への入り口でした。まさに運命の出会いですね。

私は自分で言った言葉も鮮明に覚えているんですが、「モデルになったら、お金いくらもらえるんですか?」と聞いたんです。

「そうねえ、あなただったら月に3万から5万になるわ」と。おそらく大卒の初任給が2万円か3万円ぐらいの時代だったと思います。

母が大変なのを知っていましたから、助けられたらいいなと思って、モデルの世界に入ったんです。

そこで、モデルになることを決意したキャシー中島さんは猛烈なダイエットを敢行します。今では考えられませんが、昔はかなり大変な思いをしていたんですね。

梅子
本人いわく、今が本当の体型で、モデルの時の体型の方が無理して痩せていたから偽物なんだそうな(笑)

3ヶ月で20キロも落としたそうで、少し心配になるレベルのダイエットの仕方です。

食べないで、下剤を飲む。そんなやり方をしていました。若い10代という昔の時代だからこそできた方法かもしれませんね。

痩せられた段階で、再び堀切ミロさんに会いにいき「どうですか」と聞いたそうです。そしたらOKが出て、モデルの仕事を振ってもらえるようになったのでした。

ちなみに、キャシー中島さんの現在の体型は、しっかりとふくよかになっております。キャシー中島さんの公式ブログに「昔とはすっかり変わってしまったけれど」という記事タイトルで、投稿されていたのを見かけました(笑)

笑いに変えていく姿勢がとってもチャーミングですよね!w

若い頃はボーカルグループ「カサノバ7」に参画していたキャシー中島!

歌手としての活動も、行ってきました。

イタリア人男性5人と日本人女性2人の7人組グループ、カサノヴァ7(セッテ)。バックコーラスとそのソフトな演奏が、イタリアの雰囲気を醸し出すポップな演歌調歌謡曲。

編曲のブルーノ・ダラポッサは、ヒデとロザンナのロザンナ・ザンボンの叔父。メンバーのなかにロザンナの兄のフラビアーノ・ザンボンも在籍していたらしい。

二人の女性のうち、ひとりは若き日のキャシー中島。ただしレコーディングには参加していなかったよう。

セルフプロデュースが上手だったのと、明るい性格で一緒に仕事をする人たちにもどんどん覚えてもらって、そんな中でどんどん売れだしたキャシー中島さん。

キャシー中島がキルトに出会ったのは約40年も昔のことだった

モデル時代の後半に、現在に続くパッチワーク・キルトに出会いました。昔のこの出会いが今のキャシー中島さんにつながっているんですね。

モデル時代の終わり頃に、仕事でロサンゼルスに行ったときに出合ったんです。もともと子供の頃から大好きな世界でしたから、夢中になって。作り方の本と、生地と、ちょっとした縫い方も教わって帰ってきました。

ただモデル時代には、今ほどモデルさんがいなくて。名前のある人は10人か15人ぐらいだったかな。

だから1日3~4本も平気で掛け持ちするんです。赤坂スタジオに行って、青山スタジオに寄って、広尾スタジオで終わりとか。

化粧も毎回してもらうので、いつもスッピン。Tシャツ、ジーンズ姿で、靴だけは自前だったので大きなかばんに靴をいっぱい入れて駆け回っていました。現場でも待ち時間がなくて。メークをしてもらったらすぐに撮影。

だから大好きな手芸やキルトをする時間はモデル時代はほとんどなかったんです。まあ青春なので、デートする時間だけは確保していたんですけどね(笑)。

「キャシーと仕事すると楽しいよね」と言われるようになり、モデル界も戦いが厳しくなってきたということもあいまって、20歳の時にタレントに転身しました。

そして、ついに大型番組の司会に抜擢。それが『ぎんざNOW!』でした。

しかし、この初代アシスタントという超おいしい話も、3ヶ月で降板になります。エメロンシャンプーのCMにオーディションで合格し、そっちの仕事がやりたいってことで辞めちゃったんですよね。すごいな(笑)

1年かけて世界中で撮影する、というものだったので両立ができないってことだったんですが、なかなかの決断力です。

しかも、この撮影が終わって帰ってきたときには、番組プロデューサーに挨拶しにいって「また番組やりたいです」とか平気で言っちゃったそうなので(笑)

そういう天真爛漫さが芸能界で生き延びられた大きな理由のひとつかもしれません。

キャシー中島と勝野洋が再婚した昔の話!専業主婦として芸能活動休止|手芸本は60冊出版

26歳の終わりでもあり、そろそろ結婚しようかな、という思いがありました。実は19歳のときに、モデル仲間と1度結婚しています。

ただ本当に短い結婚生活で、「同棲(どうせい)だけでよかったのになんで籍入れちゃったの?」とみんなに言われるような結婚でした。

なので2度目は失敗したくない。できれば長く一緒にいられる人と、と思って。

そんなときに、たまたまテレビを見ていたら、そこに勝野さんが出ていて。こういう真面目な人と結婚したらいいんじゃないかと思って、結婚することを決めたんです。

さらっといってますけど、テレビで見かけた勝野さんと勝手に結婚することを決めているあたり、超すごいですよね(笑)

しかも、このあとなんだかんだで超戦略的に勝野さんを落としているので、先天的にキャシー中島さんって賢いんだなと感じました。

それから知り合いや友達に、「勝野洋、知らない?」と聞いて回りました。何人かが、勝野さんがよく行く店を知っていて。私の親友、清水クーコさん(故人)と一緒にその店で張ってて。最初に会ったのは10月。

すごく酔っ払ってて。それから一緒に飲むようになって、12月に「うちにかわいいネコがいるから、来ない?」と言ったら「行くよ」と。

12月4日に付き合い始めて、婚約発表が年明けの1月11日でした。あんまり考えるスキを与えるのもまずいかなと思って(笑)。

実は年末に勝野さんが、小野寺昭さんや石原裕次郎さんらと一緒にハワイに行くと言っていたので、旅行代理店の友達に電話して、ハワイ行きのチケットを取ってもらいました。

(当時、リポーターで出演していた)「独占!女の60分」の年内最後の放送が終わってから、勝野さんに「偶然なんだけど、私もハワイに行くの」と連絡しました。「え? 前から決まってたの?」と聞かれたから「そうよ、ほんとにびっくりしちゃうよね」と言って、ハワイで会ったんです。

そうしたら「こんなに偶然が重なるなら、この女かな」と思って、結婚しようと決めたんですって。女はそのぐらいでいいんです、幸せになるためなら、たくらんでいいんです(笑)

諭吉
戦略家なのに加えて、起業家並みの行動力
梅子
欲しいものを貪欲に手に入れようとする姿勢は見習いたい、素晴らしい。

芸能界復帰→現在へ!いいともでアメリカンパッチワークを紹介

専業主婦期間を経て、芸能界にも少しずつ復帰していきました。40年間でキルトの書籍はなんと60冊も出版してしまうなど、アウトプットの物量が圧倒的ですね。

最初は「笑っていいとも」の「テレフォンショッキング」に、勝野にお話が来たんですよ。だけどスケジュールがつかなくて、「じゃあキャシーさん、出てよ」ということになって。

全然テレビに出ていないと言ったら、タモリさんも「いいじゃん!」って。

自分の宣伝もしていいと言うので「これがアメリカンパッチワークというキルトですよ」とキルトの宣伝もしたんです。

そうしたら急にまたテレビのお話が来るようになって。それが縁で小堺一機さんの「ライオンのいただきます」にレギュラーで出るようになりました。

ただ、当時は長男が幼稚園だったので、お昼の番組なら幼稚園が終わるまでに帰れると引き受けました。

どんなに遅くても4時には帰れると。“パートタイマータレント”でしたね。

復帰の話が来ても、しっかり自分の幸せとのバランスを取っているんですね。生き方が上手だなと思わされます。

キャシー中島さんの昔の経歴から、現在の成功に至るまでの歴史をまとめてみました。きちんと自分で決断し、行動してきた大人ってカッコイイですよね!

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